「海を飛ぶ夢」と正岡子規
2006-06-25


兄がお前は自分勝手だと主人公に怒る場面がある。この怒りは重い。介護をするのは理念でも何でもなく、身内にそういうものがいたらそうせざるを得ないからだ。そこに関係というものの重さがある。少なくとも主人公は、この関係の重さの側から自分の生を見つめているとは思われない。もし、家族の負担を思いやるための死の決意なら、そう言えばよい。が主人公の死の決意は、自分の力で生きられない人間は生きる価値がないというところにあるとしか見えない。その意味で、この映画は、尊厳死に焦点を当てすぎている。その発想は、どこかで自立していない人間は生きる価値がないという西欧の危うい思想を思わせる。

正岡子規は、生死の問題はあきらめれば直に解決がついてしまうと言ったその後で、自分を看護する妹律の悪口を書き連ねている。この文章も凄い。よくやってくれるけれど律は教養がないから話相手にならなくてつまらない、これからはこういう時のために女子教育が必要だなどと書く。フェミニストが読んだら怒りそうな文章だが(実際に渡辺澄子氏がかなり怒った子規批判の文章を書いている)。看護するものに感謝の念など書こうともしない。

死ぬことがわかっている人間の苦痛に満ちた生活の中での発言だが、しかし、精神の冷静な子規にしては言い過ぎだろうと誰もが思う文章だ。むろん子規を弁護する気はないにしても、本心はわからないにしても言ってはいけないことを言っているこの文は、子規の弱さを示してはいよう。が、たとえ家族であっても、死にかかっている人間を看護することとは、人間の優しさや尊厳、あるいは看護するものとされるものとの愛情などというきれい事ではない問題があるというリアリズムを読み取ることができる。少なくとも、子規は、この期に及んで自分と家族との関係の複雑さ重さをそのまま描こうとしている。これもまた凄い。

子規は余りの苦痛に自殺しかかったことはあるにしても、限られた生という宿命を受け容れ、看護するものの悪口を言いながらもその生を平気を装いながら懸命に生きる。一方、「海を飛ぶ夢」の主人公は、家族の暖かい愛情に包まれた看護を受けながら、人間の尊厳のために自殺させろと訴える。このよう比較すると、「海を飛ぶ夢」の主人公はいい気なもんだと思ってしまうのは私だけだろうか。


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