しょうがない公共性
2014-05-01


ただ、わたしたちが新しい公共性を作ろうとするとき、その遊動性をどのように取り込み、どう機能させるのか、と問題をたてられるのか、そこが肝心である。『遊動論』のすぐれたことろは、死者や自然をかかえこまない公共性はないのであって、それを抱え込んでいるとしても、それは自由を疎外する呪縛ではなく、むしろ、国家という大きな権力の束縛に抗する公共性たり得るのだと、論理的に説明できる道筋を明らかにしたことにあろう。が、それは、論理のかなり遠い先に道がないことはないという程度のことであって、今の公共性における例えば死者の問題をどう評価するのかと問うたとき、それほど役に立つわけではない。

 東日本大震災のとき多くの消防団員の方が殉職された。この人達の霊を国家が慰霊するとき、その行為を美化するだろう。国家とはそういうものである。そのことに違和を感じるのは、次の震災のとき、自らを犠牲にするのが美徳であるという暗黙の強制がそこに作られるからである。私たちは、自分の命を犠牲にしてまで人を救うことはないとは言え無い。韓国のフェリー沈没で、船長や乗組員が真っ先に逃げ出したことに誰もが怒ったことはわからないではない。が、それなら、彼らは全員殉職するべきだったのか。それも誰も言え無いことである。フクシマの原発事故のとき、現場で命を賭けていた人たちに暗黙に殉職を強いるように英雄扱いを露骨にしていた政治家を思い出す。例えば、政治家が戦死者を讃美するのは、次の戦争のときに若者にまたお国のために戦ってもらうためである。震災で殉職された方々を美化するとき、それと同じ心理がないとは言え無い。

 これは簡単に答えの出ない問題である。が言えるとすれば、みんなしょうがなく殉職したのだということだ。これは批判ではない。賛辞である。誰も、立派な自己犠牲の精神で人を救うために残ったのだというように言ってしまったら、それはかなり政治的匂いのする言説になる。が、それなら何故逃げなかったのだ、命を粗末にするべきでないという意見もでるだろ。が、人は、そういう立場に置かれたら逃げたくても逃げられないのだ。恐怖と戦いながら仕事を続ける。そういうものなのだ。それを「しょうがなく」と言ったまでである。ほとんどの戦死者も「しょうがなく」戦争にいった。それを、戦争に抵抗しなかった意志の弱い人間と批判は出来ない。

 わたしたちは公共性が必要だ。その公共性を維持するためにはなにがしかの自己犠牲がともなう場合があろう。そのとき、その犠牲を公共性のための犠牲として美化することには抵抗がある。が、犠牲そのものは避けられないというのもわかる。そういうときもある。そのとき、「しょうがない」と言える程度にとりあえずは公共性を肯定するくらいがちょうどいいのではないか。あまり、しゃかりきに公共性を主張して自己犠牲を讃美したくはない。かといって、沈む船から真っ先に逃げ出す船長のようではありたくない。その中間あたりで、公共性と向き合うということが落としどころだ。

 そして、生きている者も死者も適度な距離感でつきあえる社会が成立すれば、柄谷の言う、互酬的な交換を原理とする遊動的な社会が現れると思うのだ。

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