2007-02-20
今日一日季刊『月光』に載せる評論の原稿を書いて過ごす。今週中に何とか20枚は書きたい。山折哲雄の『歌の精神史』や富岡多恵子の短歌批判の文章などを用いながら、短歌の言葉における抒情的性格について考えようというものだ。
評論の良さはそれほど資料を使わなくていいところ。だから、モティーフと出だしさえ決まれば、後は書くだけだ。書いていくと、論理が回転し始めて、あれこれと文章が自動的に浮かんでくる。書き出すと、ほぼ自動的に5枚(2000字)くらいの文章がすぐに書き上がる。
ここからが難しい。というのは、自動的に書き上がる文章というのは、書きながら考えているので、必ずしもモティーフに沿うとは限らないからだ。というより外れることの方が多い。が、実は、この方が面白いのである。論理はその論理の中で勝手に動くところがある。その動きが意外性を孕む。面白い文章とは、その意外性をいかしながら、どうモティーフに沿って修正するか、あるいは、逆にモティーフそのものをどのように変えてしまうか、そこの操作がうまくいった文章である。
意外性に引きずられすぎると支離滅裂な文章になる。かといって意外な展開を排除すると型どおりの味気ない文章になる。私はかなり文章を書いてきているし、一応これでも小論文の書き方の参考書を出しているので、どのように文章が脱線してもモティーフに戻すことも、あるいは、別のモティーフになっても全体の統一性を壊さないように書くこともできる。一応私はプロであるから。
評論は芸であるというのが私の信条だ。芸なら一流にならなければならない。だから評論はつらいのだ。研究論文は一流でなくても何かが解き明かせたり発見があったりすればいい。評論はそういうわけにはいかない。一流で無ければ誰も読んでくれないし、書くことの意味がないのだ。
だから一流でない私が評論を書くことは大変つらいことなのであるが、誰かが読んでくれているはずだという期待と、そのうち一流の評論が書けるかもしれないという思いで、身を削って書いている。いつまで身が持つか、というところであるが。
春時雨論を書きつつ夜に入る
春時雨芽吹く草木ぞ念を入れ
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