不安のない言語論
2007-08-13


今日(12日)は奥さんを迎えに山小屋から川越往復である。川越に行くには帰省ラッシュと逆なのでとてもすいていたが、夜、山小屋に行くときにはやはりそれなりに車は多かった。

 ということで今日は勉強できず。一日運転しているとさすがに疲れる。ただ運転をしながらいろんなことを考えていた。最近運転しながら考え事をすることが多く、時々、危ないと思うときがある。隣で奥さんが、人がいるとか信号が変わったとか、ほんやりしないでとか色々とうるさいのは、たぶん私が運転中に考え事をしすぎるせいだ。

 折口信夫の「言語情調論」も時枝誠記の言語過程説も、言語主体を言語の体系よりも上位に置く。これは、心理学的言語学の系統の一つの特徴であるが、面白いのは、彼らの言語主体というのは、最初から意味づけられない何かを伝達しうる主体として想定されていることだ。

 言語過程説の面白さは、その言語がどんなに意味づけられない何かを抱えていても、その言語が言語主体にとっての言語作用でありさえすれば、つまり、言語主体の言語過程に収斂されれば、それは伝達し得るということである。折口の「言語情調論」はそこまでは徹底されてないが、話し手の情調は聞き手に再生されるという言い方をしているように、言語の情調は、主体とは別にあるものではなく、言語主体とともにあるものとしてとらえられている。

 運転しながら、こういう言語主体とは、折口の言うミコトモチと同じじゃないかとふと思い当たった。つまり、シャーマンみたいなものである。神ではなく神の言葉を伝える主体ということだ。こういう言語主体は、欧米的言語観とは違うだろう。

 ソシュールの言語(ラング)という概念が衝撃を与えたのは、それが差異の体系に過ぎないものであるからで、つまり唯一神のあらわれとしての言語という神話を壊したからだ。そこには、言語主体そのものもこの差異のなかにとらわれる。従って、このままでは虚無の体系でしかない。それを救うのが実存主義的な投企という概念である。

 言語の体系を、言語主体が生きた言語たらしめるのは、死という虚無を克服する「在る」というあり方への前向きな了解である。これが投企である。これは、神を失った人間の命がけの飛躍みたいなもので、この姿勢を失ったとき、人間は人間としてのアイデンティティを失う。それ故、意味づけられないものとは、この姿勢を否定しかねない不安(キェルケゴールの言う「死へ至る病」)そのものである。そういう不安を近代の人間は抱え込んだ。従って、近代の人間はこの不安を抱えながらどう克服するかに、生きる価値を置く。

 ところが、日本の近代の言語観特に折口や時枝は、最初から言語主体は意味づけられないものを許容するととらえる。そこには虚無は成立しない。むしろ、言語そのものが神を体現するとさえ言える。その場合の神とは万物を神とするアニミズムということになろうか。言語主体とは、この神の宿る言葉の媒介者ということになろうか。

 その意味で折口や時枝の言語観に欠けているもの、西欧的言語観から観てだが、それは不安である。安藤礼二が『神々の闘争』という折口論で、ミコトモチ論から「言語情調論」に入ったのはよく理解できる。ただし、かれはフッサールの影響を言う割には、こういう違いについては分かっていないようだ。


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