2008-08-14
超越の側が一神教な神であるときには、この矛盾は封印される。なぜなら、最初からここにある自己は神の創造物だからである。が、この超越が、自己にもまた日常のどこかに、他者にも、いたるところにあるとするなら、たちまち、矛盾が顕現する。自己という位置が神の被創造物ではない以上、論理は自己から出発してまた自己に戻らなくてはならない。自己を超えることを(ある)とするなら、自己が自己であることは(ない)である。、一神教でない世界では、自己を超えることは、一神教が自己を神の創造物とするような具合に、自己が自己であることを解決しない。自己を超えることと自己が自己であることがただ同時にあるだけであり、だから、ないがある、あるがないという言い方が必然化する。
さて、こういう論理を心理療法の現場にいる心理学者が何故用いようとするのかということであるが、どうやら、心理療法の治療の現場においては、こういう多義的な意味での超越が何等かの形で認められるからだということであるらしい。
むろん、スピリチュアルカウンセラーといった典型的な治療のことではなく、治療者がクライアントとに向き合うこととは、被治療者の生あるいは魂といったものにシンクロすることであろうから、そういう行為自体は、ないがある、あるがないといった言い方でしか言い表せない何等かの超越を共有することである、ということのようだ。
たとえて言えば、心理士がクライアントに向き合うことは、一種の憑依であり同時に憑依から醒める行為であるとういことだ。この本には鎌田東二も参加していて、鎌田は心理士は審神者(サニハ)の審神者だと言っている。つまり、憑依しながら同時に憑依の内容を対手に冷静に語ること。そういう意識と無意識が混じり合いながら自ずと制御される自在な姿勢、というところ、と言ったらいいか。私がまとめるならこういう言い方になろうか。
江原啓介のように守護霊や前世を明朗に語ることで不安を消去するということではなく、問題は、被治療者と向き合う、話す、治療するという行為そのものが最初から言葉によって掴み出せないことがらであるということなのだ。言葉では捉えられないという意味での超越、それを必然とするなら、それこそ憑依や覚醒といった意識と無意識をまぜこぜにするような関わりの中で、そこから自ずと制御されていくある生のかたちを被治療者にあるいは被治療者が見出していく、という手順をいわば必要とするということではないか。この本を読みながらそのように感じた。
心理学関係の本が難しい理由がこの本を読んでよくわかった。つまり、整合性のある論理では心の病は治せないということである。心が複雑にからまるように論理もまた絡まっているのである。
話などせぬままにただ西瓜食う
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