2009-01-11
昨日は、昼から学校の新年会。後援会主催で私は役職なので来賓の一人。水道橋のホテルで毎年恒例の行事である。壇上で鏡開きをさせられた。これも仕事のうちである。不況下の厳しい時代、こういう行事が続けられることは実にめでたい限りである。
正月の運動不足で少しウェストが太くなったようで、スーツのズボンが窮屈である。それと寒さと、そして新年会でフルコースの料理を食べる。それで持病の腹痛になる。お腹が張って痛くなる。重篤な病気ではない。これも恒例なのである。我慢をして夕方に学校に戻り研究会に顔を出す。若手の研究者中心の研究会なのだが、すでに発表は終わっていた。今日は学会の例会もあったが、新年会と研究会とで出られなかった。
大塚英志『公民の民俗学』を読み始める。昨日一時間ほど早くホテルにつきロビーで80ページほど読んだ。近代以前の養子制度の話から貰い子幻想までを扱い、捨て子の習慣とそれを拾って育てるシステムが江戸時代にはあったと論じる。ここから、母性の強調、ひいては伝統の強調などは、近代国家形成によって作られたものにすぎいなと論じていく。
確かに、母子心中が、近代以降の家長の権威や長子相続を絶対化した家族制度を確立した近代以降の現象であり、かつては家族というありかたにそれほどの血統の幻想はなかったという指摘はその通りである。
大塚英志の言いたいことは、民俗学で扱う伝統なるものなどそんなに古いものではなく近代以降に形成された産物にすぎないと、権威化された民俗学を批判的に相対化することにある。いわゆるカルスタ的なスタンスなのだが、確かに、こういうこういう相対化は必要だと思う。が、一方ではそろそろ飽きてきたというのも確かだ。
なぜ飽きてきたかというと、こういうカルスタ的認識方法は、きわめて一元的に現象を裁断してしまうからである。例えば、母子心中は近代以降の現象だということと、近代以前にはなかったということとは違う。しかし、こういう裁断は、近代以前にあり得た母子心中を論じる契機を奪ってしまう。伝統もまた同じである。近代国家の意識形成によって伝統は作られていくというのがわかるが、それ以前に、あるいは国家にかかわりのないところで、伝統という認識方法がなかったとは言えないはずだ。が、それを言えなくしてしまう雰囲気がある。
こういうカルスタ的一元的論理は楽だし、気持ちがいい。多くの研究者がこれを使いたがるのはよくわかる。しかし、一度裁断したら二度目は当然色褪せる。二度目は、その論理が押し隠した対象の多様性が逆にせりだしてくるからである。
こういうカルスタ的方法が教えるのは、今の私たちが現実やこの世界を把握しようと用いている認識の方法や枠組みが、私たちの時代や社会の極めて大きい観念の枠組み、例えば国家や権威ある思想などによって作られたものに過ぎない、と百年後に批判される、ということである。その批判の根拠は、たぶん百年後には、今の時代のわたしたちの認識の方法が無力だったと証明するような歴史的展開(例えば日本の敗戦のような)があるからで、それを根拠に無力だと批判している。
さて百年後から批判される私たちはどうしたらいいのか。思想とは未来を想定してのものだが、一方では、確実な未来など分からないということも思想にとっては大事だ。絶対にこうなる、こうなるべきという思想は、ハルマゲドンを信じたり、イデオロギーの強制になる。
大きな観念の枠組みなしに確かに認識の方法を生み出すのは難しいだろう。が、現実の多様さは常に意外性に満ちていて、そういう大きな枠組みによって与えられた言説を飛躍させたりあるいは大きな枠組みでは捉えられない現実を掴むものだ。百年後からはそういうものは見えないかも知れないが、それは見ようしないだけであって、目をこらせばみえるだろう。
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