やっぱり教員は大変…
2009-06-25


今日のニュースゼロで、北九州市のある公立中学校をありのまま見せます、というタイトルで学校の長期取材特集をやっていた。おそらく全国の公立中学というのはどこでもこうなのだろうな、という授業風景が映し出されていた。荒れてはいないが、とにかく、授業中に椅子に座らない、寝るといった、生徒が映し出される。

 つまり生徒に集中心がまったくない。先生たちはテレビに映っているということもあるが、実に忍耐強く指導している。教育に関わる身として、思わず見入ってしまった。そして、こういう所の教師でなくてよかったと思った。私がこういう学校の教師になれるのかどうかよくわからない。なれるかも知れない。しかし、生活のために働かざるを得ない、という以外ではこういうところの教師にはなりたくはない。まあ、この学校の先生達もそうだろうが。

 集中心を欠く原因は楽しくないからである。楽しくないのにそこにいることを拒否出来ないからである。私だって、やりたくない仕事を無理矢理やらされていれば集中心をもとうとも思わない。それだけ原因が分かっていても、人の心は簡単には矯正も治癒も、そして教育も出来ない。そこがやっかいなところなのだ。

 集中心を持とうとしない彼等に共通するのは、今生きている事がめんどうくさいと思う気持ちである。たぶん将来に靄がかかっていて、その靄は自分の努力で簡単に晴れるほどなまやさしいものでないこともわかっている。この世界では自分などたかが知れていることをすでにわかっていて、本当に自分が集中すべきところはこんな場所じゃないこともうすうすと分かっている。だが、ここで何年か我慢して勉強する振りをしないと、たぶん本当に集中すべきところと出会えないことも分かっている。

 集中しないのは、集中しないと将来ろくな職に就けないぞ、といった大人の威しへの抵抗でもある。だからといって、確信犯なのでもない。やっぱり人間集中して生きた方がいいよな、という率直な気持ちを失っているわけではない。この、自分ではどうにもできない自分の中途半端さ、そして誰のせいにも出来ないのに、誰かのせいにしなくてはやってられない将来の見通しのなさ、それらを上手に忘れさせてくれて、集中心を持てるように導いてくれる先生がいたら… たぶん、みんなそう思って、ふてくされて学校に来ているのだ。

 そういう先生になるのは大変である。ものすごい忍耐力と、人に関わることへの根っからの明るい好奇心がないとだめである。私は好奇心はあるが忍耐力がない。私の指導にうまく反応してくれないと、すぐに、自分はダメなんだと投げ出したくなる。それを何とか押さえて教師をやっている。教員を辞めない忍耐力だけは少しはあるようだ。

 他者に影響を与え、その他者を変えていく(よく言えば成長させていく)ことを目的にする職業とは大変である。よくやってられるなあ、と時々自分に感心することがある。集中心の切れかかる私を上手く指導してくれる教員がいたらありがたいのだが。もう遅いか。
      
                  切れかかるわたしを見てて梅雨の午後

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