キリストとブッダ
2011-04-10


土曜は学会のシンポジウム。けっこう難しい話だった。質疑応答などで、質問者がいろいろと要点を整理して質問してくれたので、発表の意図は理解できたが。ただ、テーマと全然ずれていた気がする。

 Y君の発表は、経典の注釈を巡るもので、私の理解では、仏教経典の注釈が仏教が渡来する国で何故繰り返し行われるのか、という問題提起だったと思う。その答えは、注釈することによって真理が見えてくる、と注釈をする僧たちが考えていたからだ、という趣旨であったと思う。これだけ取り出せばそんなものかで終わってしまうのだが、実は、今大澤真幸『量子の社会哲学』を読んでいるのだが、その中に仏教とキリスト教の比較がある。私は、その仏教の説明の仕方をつい重ねてしまったのだが、そのためか、とても興味深かった。

 それによると、キリストとブッダはどちらも人間であると同時に人間を超えた神の領域に達したものであって、ただ関わりの方向が逆なのだという。キリストは神が人間へと受肉する。ブッダは人間が悟りによって神の水準に達した姿である。つまり、「神→人間」か「人間→神」の違いがある。が、これは鏡映的な反転像ではないくて、ブッダの場合は、ブッダの生き方が教義のロールモデルになっている。つまり、ブッダという神ではない人間の生き方(修行)が、神という本質のあらわれなのだという、極めて古典的な関係が成り立つ。古典的というのは、個別的なこの世の現象(人間)を通して本質が開示される、という考え方のことである。本質は決して見ることは出来ないし到達もできない。が、本質は個別的な現れの先に、不変的なものとして必ずある、という確信によってあるものである。その時の、本質は個別的なものを超越する不変的なものという確信を、古典的というのである。

 だが、量子力学の時代になると、この確信が否定される。量子力学は、個別的なあらわれ(偶然性)が不変性(必然性)を決定する、という不確定の原理のことである。普通は、ある必然の世界(神)があって、その中で個別的な存在、つまりわれわれ現世の人間はうろうろしている(偶然の積み重ねのように)が、量子力学は、われわれの偶然の振る舞いによって、必然の在り方が決定されてしまうというようにその関係を逆転させるのである。

 実は、キリストはそのような量子力学的な必然と偶然の関係なのだというのである。キリストは歴史的存在であり個別的な存在である。ところが、その個別的存在がそのまま神であると見なしてしまうのがキリスト教である。キリストが神のロールモデルなのではない。キリストという個別的存在が神の現れなのである。キリストという個別的存在に神という本質が決定されている、ということであって、だから量子力学的なのだというのだ。ある個別的な人間の偶然性を通してしか神はあらわれない。その人間がブッダのように神の如くふるまい修行したから神になったのではない。全能の神と個別的な人間がいきなり同じあるとする、論理を超えた不確定なあらわれこそがキリストの持つ意味なのである。キリストの死は、人間の死ではない。人間の死ならばキリストは聖人になるが、そうではなく、神の死である。つまり、全知全能の神が死ぬというところに、この個別と本質との不確定な関係が、言わば確定されてしまうというわけだ。


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