シータの覚醒
2011-06-23


いやあ暑い。さすがに今日は暑かった。教室の学生もだるそうだった。この最悪の環境の中で、授業をやるのも大変である。昔、私が学生だった頃、クーラーのない教室で授業していたが、あの時はそういうものだと思っていたが、今は心地よい環境が用意されていて、ただ、人為的な原発事故でその快適さが奪われている。この不幸を、原発不要に持っていくのか、原発必要に持っていくか、学生の反応が半々だったことはすでに書いた。

 どっちにしろ、論理的に説明出来るかどうかか大事だというのが教育ではあるが、私などもそうだが、やはり情報によって論理が左右されるということがある。そのことの指摘もまた大事なことである。

 『天空の城ラピュタ』の授業は反応が良かった。特にシータが最後にムスカに向かって、「あなたは私と死ぬのよ」とか「土を離れては生きられない」と叫ぶ場面、私は「シータの覚醒」と呼んだ。ここで少女シータは少女でなくなる。あえて言えばナウシカになる。実際声もここで変わる。突然大人の声になるのである。シータは、パズーによって助け出されるお姫様ではなく、人類を救う救世主になるのである。シータは最後に圧倒的な存在感を示し、パズーの冒険物語だったこの映画を、少女が世界を救う物語に変えてしまったのである。ここからパズーはシータの影に隠れてしまう。

 この場面を見せたが、「鳥肌が立った」と感想を述べた学生が何人かいた。あらかじめ情報を与えて見せたので、学生は期待通りに反応したということである。結局、宮崎駿は、少年の成長譚を最後まで描けないのだ。最後の最後に女の子に成長の証しを取られてしまう。そして、宮崎駿が、女性に圧倒的な人気なのもここに理由があろう。『ハウルの動く城』はさんざんな評価だったが、それは男の評価だったという。男は、ハウルに感情移入出来ず、何を描こうとした物語なのかわからない、と反応した。ところが、女性はこの作品を圧倒的に支持した。いきなり老人になってそして若くなり、ハウルを救う女主人公ソフィーに感情移入したからである。この男女の反応の違いは日本でも世界でも共通していたと解説に書いてあった。

 結局、宮崎駿の描くアニメは、多かれ少なかれ、少女が覚醒していく物語なのだ。男はその覚醒のきっかけになるかあるいはそれを助ける役割なのである。『紅の豚』は中年男が主人公だが、ここでもやはり、フィオという美少女が登場、主人公ポルコはフィオの成長を助ける役回りになる。

 宮崎駿はロリコンなのですか、と書いた学生がいたが、そうではないだろう(そうかも知れないが)、要するに、女性への性的願望を抑圧しすぎる真面目なタイプなのである。マザーコンプレックスがある、と言ってもいいかも知れない。斎藤環は『白蛇伝』のヒロインに恋したと宮崎が語っているのに注目し、ここに彼の心的外傷がよく現れていると述べている。二次元の女性への恋は、現実へ関われないことの回避行為であり、その意味では「オタク的資質」を持つ(といってもこの程度なら私だって持っている)が、その誘惑に対して出した答えが、少女の覚醒を描くことなのである。つまり、これはかつての少年宮崎が果たせなかった通過儀礼の、代理行為でもある。その意味ではセカイ系の心性とも近い。宮崎もまたオタクやセカイ系の心性と伴走していたということである。

                      たくさんの少女まだ覚醒せず夏

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