大学は数が多いのか?
2012-11-08


田中真紀子大臣の新設大学不認可発言には驚いた。というのは、勤め先でも学科の学部昇格への申請をしていたところで、こっちは申請が通ったが、不認可になった三校はお気の毒としか言いようがない。結局認可にはなったが、この間の当事者の心痛察するに余りある。当事者がわが校で会ったら、たまったものではなかったろう。この騒動、大きな原因は、大学認可ルールを最終段階になって突然変えてしまった田中大臣の暴走気味パフォーマンスによるのものだが、ただ、一方では、大臣の指摘にも一理あるとする風潮がある。それには、一言申し上げたいことはある。

 田中大臣の言いたいことは、大学の数が多すぎて質が低下している、だから新設は認めないというものである。確かに、一理あるが、現状を認識した言い方ではない。先進国のなかでは日本の大学進学率が最低であることはすでに分かっていることである。イノベーションの時代とか、知的能力を高めることが国の発展につながるとか、だれもが言う時代である。それなら、大学進学率を先進国のなかで高めていかなくては、技術革新の競争に遅れをとり、日本社会が衰退していくというのが理屈だろう。その意味では、進学率を大幅に上げるには、日本の大学数を増やして行かなければならない、というのが、日本が取らなければならない教育戦略なのである。

 高校卒では現在ほとんど就職できなくなっている。当たり前で、高卒では、人件費の安い中国やタイ、ミャンマーの労働者と同レベルでの競争になるからであり、アジアの労働者に比べて十倍の給料が必要な日本の高卒労働者に職があるわけがない。職があってもほとんどがワーキングプアになるしかないのである。
 
 それなのに、何故、日本は大学進学率が50パーセントにしかならないのか。これでは、毎年一学年の人口の半分をワーキングプア予備軍として排出していることになる。その理由は簡単で、教育費が高いからである。日本の大学の教育費は先進国の中でも圧倒的に高い。アメリカも高いが奨学金の制度が日本とは違う。ヨーロッパは驚くほど授業料が安い。つまり、高等教育にかける社会的経費を日本は安く見積もり、一部のエリートは支援するが、それ以外は少しの援助はするがだいたいは私費で教育を受けろ、というのが国の方針である。

 社会的経費をかけないことで大学の教育費は個人の負担増になり、結果、志願者は減少し、大学教育の必要性を見越して大学を作ったものの、志願書がすくなく、定員割れが続出するという事態になっている。従って、大学数が多いのではなくて、日本の社会のレベルにみあうほどに大学進学者が少ないことが問題なのである。

 大学教育の質の低下を言われると、耳の痛い話しだが、確かに、規制緩和によつて大学の数がふえたことに一因がないわけではない。が、質をあげるために大学の数を減らせというのは本末転倒である。問題は、進学率を上げなければならないとすれば、大学もまた、機能別にある程度様々なレベル分けされるということである。大学をみな均一な教養教育機関とみなす発想は出来なくなるだろう。基礎学力の低い学生のための大学があっても構わない。そういう棲み分けは必然的に起こり得る。その棲み分けを前提にして、それぞれの質をどうあげるかの議論が必要なので、一般的に、大学全体の質は低下している、と切ってしまうのは生産性のない議論である。

 こういう場合、教育の質をあげるように大学や教員は自覚せよ、というのは限界がある。大学も教員もある程度の競争性にさらされる必要がある。その意味でいえば、大学設置基準が緩められ、大学自体が競争原理にさらされるのは、質の向上という意味では間違ってはいないのである。むしろ、国家が過度に介入して既存の大学を保護してしまえば、結果的に質の低下を招くことは、銀行などの護送船団方式の破綻ですでに体験済みのことである。


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