出版記念パーティは苦手だ
2006-12-13


今日はいつもながらの会議日で、あさから夕方まで会議詰めである。夕方六時に市ヶ谷の私学会館アルカディアで加藤英彦歌集『スサノオの泣き虫』の出版記念パーティがあり出席。

 こういう会には原則として出ないようにしているのだが、来年から非常勤をお願いしている歌人のKさんが発起人になっているし、この歌集なかなか面白かったので、本人を見ておこうと思ったことと、また場所が帰宅ルート途中なのでちょっと寄っていけばいいや、という軽い気持ちで出席の返事を出したのだが、行ってみて、予想していた立食形式ではなく、坐る場所がフルコース料理の指定席になっている結婚式のような具合の会で、出たことを後悔した。しかも、スピーチが突然回ってきて、何か言いたいことも言えずに終わってしまい、つくづくこういう場に出るのは辞めようと思った次第だ。

 しかし歌人や詩人のスピーチはみんなすごいなと思った。結構辛辣に歌集を批判していた。歌集への違和感をいろいろ言葉を選びながら語っていた。そこに好感が持てた。まあ、昔からの知りあいという親しい者同士ということもあるのだろう。部外者の私などただ良かったですというのがせいいっぱいだ。この歌集については歌誌『月光』で「荒ぶる叙情」という題で歌集評を書いている(発行はまだです)。最近読んだ歌集の中では特に面白かった歌集である。歌集評で扱ったその荒ぶる歌を何首かあげる。

   忿怒の束を濯ぎてやらむこの川の水にも骨格はあるとおもえり
   憤死するまで走ればむらぎもの腐敗きわまる 走れ走れよ
   絶息するまでの恍惚、幾たびか声あぐるとき緊まりゆく肉
   昨夜禽を裂きたる指がいま汝れの胸もとに触れたくてならぬ
   私のなかに狂れたる鬼がいて夜ごとかなしき宴をひらく
   
これらの歌は、歌い手の身体の内奥に抱え込んだ過剰なるもののデフォルメである。ここではあきらかに出口をふさがれた「情」の奔流が、無意識の中で醸成された暗い物語に出会っている。それは死の傾斜とも呼ぶべきイメージを作る。このような歌い方は、斎藤茂吉もそうだし、前衛歌人もそうだった。その意味で、荒ぶる叙情は、短歌の本流の一つなのだと言える。

 来年の3月に雲南に調査に行く予定だが、その歌合わせに同じ短大の同僚であるTさん来室。調査旅行のスケジュールの打ち合わせに来た。アジア民族文化学会のE君来室。彼には非常勤講師を頼んでいる。忙しい一日であった。

        泣き虫の歌人を囲み年が暮れ

        温石の如き言葉を抱きかかえ

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