村上春樹と資本主義の終焉
2014-11-17


来月の学会のポスターと案内を作成し発送。が、発表者の名前を一字間違ってしまった。「朗」を「郎」としてしまった。私の単純ミスで、確認を怠ったのが理由。時々こういうポカをする。いつも落ち込むのだが、今回も落ち込んだ。こういう間違いはやってはいけないのだが、性格の問題かなかなか直らない。職場では助手さん達に事務仕事をあれこれ指図する立場だが、ミスをしても怒らないことにしている。自分を省みればとてもじゃないが叱れない。

 人間はミスをするもので、本当はミスをしてもそれを発見し大事に至らないような体制作りが必要なのだが、一人でほとんど事務をこなさなければならない小さな学会では、なかなか難しい。ご迷惑をかけた関係者のみなさん、ごめんなさい。

 短歌評論集の再校を出版社に送る。私は校正が苦手で、出版すると必ず間違いが見つかる。今度ばかりはそれを防ごうと校正にけっこう時間を掛けたつもりなのだが、やはり性格の問題なので、自信はない。もし見つかったら、これもごめんなさい。

 何冊か本を読んだ。村上春樹『女のいない男たち』、古市憲寿『働き方は「自分」で決める』、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』テリーヘイズ『ピルグリム1〜3』、アンディウィアー『火星の人』。他にも刑事物を三冊ほど読んだがつまらなかったので載せない。

 村上春樹のは短編集だが、いつもの、かなり根の深い孤独を抱え込んでいるものたちの物語。村上の描く、突然心の隙間からあふれ出す孤独の闇に侵され、みな、何が起こったのかよくわからずに作者と覚しい者に自分の人生を語るという、そのおきまりの物語を読んで見て、その物語が、今回、自分とかなり重なっているような気分になった。そうか、俺って結構孤独なんだなあと、いまさらながら村上春樹に教えられたということだ。

 それはそれとして、村上春樹の文体は、実に滑らかで、逡巡したり、余分な言葉で遠回りしたりとか、言いよどんだりとか、そういうのがいっさいない。言葉にならない深刻な孤独を抱えている主人公達は、実に的確になめらかに合理的にその孤独を語る。このなめらかさは何なのだろう。実際の会話は、たぶん、言いよどみ、えーと、とかあれとかこれとかの無駄な言葉の方が多く、的確な指示語も言えず、そんな風に語るものだが、村上春樹の世界では、そういうたどたどしさはいっさいない。つまり、ディスコミュニケーションを描きながらディスコミュニケーションを感じさせないのだ。

 どんな闇でも説明出来ないものはない。つまり、そういうのは「これは説明出来ない闇なのだ」とあっさりと片付ける。具体的に語れなければメタ的に語り、比喩的に語る。この破綻のない文体に、孤独という心の闇が何かファッションのように、つまり、その人の外見の一つのように見えてしまう。だから、物語はカタストロフィを用意しない。

 若い時は、カタストロフィのない物語は感情移入が出来なかった。が、最近は、むしろ、そういうのは苦手で、破綻のない文体で描かれるカタストロフィのない物語が好みである。たぶん、体力と、希望の問題である。若い時は孤独であっても、その孤独を、未来の出来事の中でどのようにもかわっていくものだという希望によって受け入れた。が、今は違う。死ぬまでもうずっとこのままなんだろうなあと思う。今更劇的に人間関係を変えていくことなんて起きるはずもない。とすれば、孤独はすでに立派な外見になっている。村上春樹はまさに外見と化した「孤独」を描いている。だから、ほとんど自分と重なったのだ。


続きを読む


コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット